オリジナル英文記事(by World Treausres Music)


『ミトコンドリア讃』は、とても多くの問いかけを投げかける。この作品集はワールドミュージックの領域において、究極の先駆エレクトロでヴォコーダーが満載のエレクトロ・ファンク周辺で最も革新的でまとまりのある例を見せている。ミノル・フシミ  の世界では何が起きていたのだろうか? 彼の音楽はまるで(当時の音楽シーンの)動きからは隔絶されていたかのようで、日本の伝統を深く掘り下げている。そしてさらに、試みられたエレクトロ・ファンクの定型は、この革新者の作品においてはっきりと存在しているし、その力量は明白である。

彼は振り返る。「日本の伝統曲からアイディアが浮かぶことがよくありました。それを現代的エレクトロ・サウンドの中に生かそうとしました。そしてまた、伝統楽器の音とシンセサイザーの音の傾向に類似性があるのを発見したのはとても刺激的でした」。


この熱狂的音楽時期の全体像は、ニューヨークやブレイクダンス現象が最も支配的である。彼にとっての図像(当時のその音楽)は伝統的かつ歴史上重要なものであり、ほとんど時代錯誤である。だが彼の新鮮味と流儀は今でもしっかりと最先端である。

エレクトロ・ファンクの世界をさらに掘り下げてゆくと、世界規模で様々な都市において活動があることがわかる。そこでは、ヒップホップやジャズファンク文化と同時に、エレクトロ・ファンクとブギーが閉じた社会やアングラのイベントにとってのサウンドトラックであった。今日、レコード探偵たちは世界中で特価品箱を徹底的に探し、古い時代の一発屋ヒットを苦労して見つけ出したり、エレクトロ・ファンクのルーツを喜んで詳しく探ったりする。

極めて重要なレコードに関しては、エレクトロにパンク以後とニューウェイヴからの影響で熟成した は継続的に再理解されている。また、容易にたどれる関係はもちろんデトロイトとヨーロッパであるが、ますます世界中から例が現れてきている。(ファインダーズ・キーパーズやサブライム・フリークエンシーズといったレコードレーベルによってこのところ見出されたが) それは、南アメリカや極東と同様にまた、シリアやインドといった予期せぬ場所からも含んでいる。


そしてもちろん、彼がその国で真のエレクトロ・ファンク活動のパイオニアであり指導者であるとより認識されている日本、でも同様である。
現在の現場のスターたちによって作られる独特で伝わりやすいグルーヴに夢中の、レコード購買層の間でのエレクトロの人気は明らかである。

現在のエレクトロ活動は力強く、またエレクトロ・ファンクのルーツに対するよみがえった熱情にも結び付いている。DMXクルーからDトレインやフレンズ・オヴ・アースやファンクマスターズの物なら何でも、またスティングレイやソウル・ソニック・フォースからも。ミノル「フードゥー」フシミの音楽は、今日の完璧にフィットし、とてつもなく素晴らしく響く。

今年のまさに最良の編集盤の一枚である。レフト・イヤー・レコードがその「張本人」である。


ミノル「フードゥー」フシミは、2017年度の最良の回顧編集盤レコードのうちの一枚が発表される以前に知られていなかったわけではない。過去の彼のLPはよく売れたし、音楽界でもこの「不思議な力のあるもの」への関心は高かった。だが、レフト・イヤー・レコードのおかげで、この革新者―――変調されたラップとエレクトロ・ファンクを伝統楽器と結び付けた―――は1980年代の知る人ぞ知る存在から全世界的に崇拝される対象にまで引き上げられたのだ。

日本の神奈川県逗子市に住むこのプロデューサーに話を聞いた。

この当時、どんな音楽的影響を受けていましたか。

当時は、エレクトロ・ファンクとヒップホップです。でもジャズ・ファンクにはあまり惹かれませんでした。ちょっとスムーズ過ぎてしまう感じで。多重録音の最初のきっかけは、ポール・マッカートニー1970年のソロ・アルバムです。でも当時はまだ自分は十代最初だったし機材は当然まだ高価でした。普通の人は「ドラムス演奏が可能な防音されたスタジオ」を自宅に持つことなどとてもできなかったわけですから(で、自分はただギターの練習をするだけでしたね)。ギターヒーローはジミ・ヘンドリックスです。その頃は彼のテクニックに関する楽譜や解説書などはまったく出ていなかったですから、耳コピをするしかなかったんですが、それは良い音楽的訓練になったと思っています。というのは学生時代、とにかく音楽教科が大嫌いだったので。次に、1980年になってスティーヴィー・ウィンウッドが彼一人で素晴らしいソロアルバムを作り上げましたが、あれはデジタル・ドラムマシンがあったからこそですね。その時、自分も近い将来似たようなことができそうな期待が持てました。そしてエレクトロ・ファンクが出現した時、創作欲に火が付いたというわけです。そしてヒップホップが現れ、それはとても新鮮で、ヴォーカルというものに対する考えが変わりました。
 
音楽の聴き手としては、大学卒業後にサラリーマンとして勤め始めてから多くのジャンルの音楽に興味を持つようになりました。たぶん、当時仕事で疲れ果てていたので余暇にはますます音楽の必要があったのでしょう。給料のほとんどをレコードとオーディオ機器に費やし、仕事帰りには秋葉原(東京にある街で、レコードとオーディオで有名な場所でした)に直行していました。西欧クラシック音楽(特に中世ルネサンス音楽が好みでした)から世界各地の音楽や日本伝統音楽まで。それは自分の音楽制作に役立ったと思っています。

いくつかの曲について教えてくれませんか。

『タナトス…』の封入冊子は手描きでしたが、現在もう紛失しています。(その内容を見ると)当時、地球に対する不思議な愛情があったようですね。 信じられないかもしれませんが、『タナトス…』のジャケットの元になった油彩画は(レコードプレス会社の社員によって)盗まれてしまったんですよ。手元に残っているのは、ピンボケの写真だけです。

「フラれてナンボ」: この歌詞とコンセプトについて説明しますと、そもそも女の子にフラれた男子を励ますような歌詞なんです。というのは、当時女子の数が男子よりずっと少ないと言われていて、また、バブル経済がすでに始まっていて… 要するに男子にとっては辛い時代だったわけなので。だから、歌詞は「女の子にフラれても悪くはないよ、いい経験になるしまた一つ成長するんだから」というもので、ヴォコーダーのトーンは「優しく励ます感じ」にしています。
「愛は脳震盪」: 数十年前ですが、後ろから激突されて脳震盪を起こした経験があるんです。深刻な失神になって、その後も数日間ひどい頭痛が続きました。そんなひどい経験がヒントになったんです。

いくつかの曲は実体験に基づいているとは言いましたが、もちろんすべてではありません。多くは、想像の産物です。例えば、「肉机」では、日本の過熱する「お受験」状況を批判しています。

「フードゥー」という名はどういう経緯で?

ジュニア・ウェルズのアルバム『フードゥーマン・ブルース』から取ったのです、あのアルバムが大好きなので。でもそれだけが理由ではないです。あのアルバム以前から、ジミヘンの「ヴードゥー・チャイル」はよくなじみがありましたが、「フードゥー」はその変形だと知ったわけです。当時、日本ではバンドブームが起きていて、まるで雨後の筍のようにバンドがあふれていました。でもその多くが判を押したように同じような傾向の音で、自分にとってはほとんど興味を惹かれるものがありませんでした。なので、「よし、ならば自分が音楽的に『フードゥー』(不吉なもの)なってやろうじゃないか」と。

ジミヘンはもうとにかく大好きで、ギターアクションまで真似したりしたんです。ある時(若かった頃バンドのステージで)歯で弾くアクションをしたんですが、失敗してギターのボディを思い切り前歯にぶつけてしまい、欠けてしまいました。今でも欠けを人工歯で接着した境目がはっきり見えますよ。

あの素晴らしい音楽をリリースしていた後、どうなりました?
現在も何か音楽を作っていますか。

(93年頃から)コンピュータ(マッキントッシュ)での制作環境に替えたのですが、とにかくフリーズとクラッシュの連続で疲れ果ててしまった時があるんです。そしてそれはもうすべてのマルチトラックレコーダーとミキサーなどを処分してしまった後でした。で、もうただ生楽器に触れたいだけになってしまったのです。
でも(25年経って)今年からまた作り始めました。宮城県の民謡「斎太郎節」をカバーしたもので、そこで自分の創作楽器「琵琶ウード」も弾いています。

レフト・イヤー・レコードとはどのようにして?

レーベル主宰者のクリス・ボナートがフェイスブックで連絡してきました。

再発盤が出て以後、新しいファンが増えましたか?

はい。若い人たちとコミュニケーションするのはとても楽しいです。

インタビュー1 (by ban ban ton ton)